« 鎌倉赤坂飯店(鎌倉小町) | トップページ | 山崎杉夫さんの「えほん・鎌倉探偵」 »

2004年09月12日

9.11以後の3年

040912brun

※写真はクリックすると拡大表示されます。
人々が「やり過ごす」ことによるファシズムの到来を描く『茶色の朝』(フランク・パヴロフ/物語・ヴィンセント・ギャロ/絵/大月書店)より

9.11(2001年)はけっして始まりではなく、歴史的なひとつの結果だ。
しかし9・11以後のアメリカによるアフガニスタン、イラクへの一方的先制攻撃「戦争」と、それを支えるための統制・抑圧の網の目の構築によって、世界はむきだしの軍事力と果てしの無い戒厳令化が支配するパラダイムに入ってしまった。

イラク日本人人質事件に関わって天下の朝日新聞は2チャンネルの罵詈雑言を「高級」にまとめ直したような「国際政治学者」の論考を載せたが、それには「世界が主権国家の原則で動いている事実を無視して行動しては真に意味のある行動はできない」などとあった。アフガニスタンとイラクに対する攻撃・戦争は、主権国家とその間の関係を規定した国際法でいうところの「戦争」などではない。ラムズフェルドは「国際法は時代遅れだ」と公言しているし「対テロ戦争」での拘束者は国際法上の「捕虜」としては扱われていない。「無法者」が世界を支配しているのだ。

たくさんの問題があるはずだった(むろん現在でも存在する)。圧倒的な富の偏在、飢餓、エイズ、環境、資源、難民、移民、宗教対立、地雷、植民地の遺制等々…。
ブッシュは「対テロ全面戦争」「安全確保」の名のもとに「問題」そのものを爆撃ですべて吹っ飛ばすというとんでもなく荒っぽい道を突き進んだ。

「アメリカはなぜこうも世界で嫌われるのか」「アメリカは過去50年間を見ても何百万人という世界の人々を殺してきたのではないのか」という真摯で反省的な問いは、元々の「加害者」が、9.11によって「国民全体が被害者」であるかのように一気に装われ実感させられるなかで「愛国的でない」声として圧殺された。
複雑にからみあった問題は単純な言葉と二元論に置き換えられた。「正義」と「邪悪」?
世界はジョン・ウェインとそれを補佐するディーン・マーティン、リッキー・ネルソンのみが正義となった。人権より「反テロ」を優先させる「愛国者法」はほとんど無制限に人々を拘束できる(拘束者の9割以上が結局疑い無しとして釈放されるにもかかわらず)。ウェブでの発信、メールの監視ももちろんだ。

アメリカの「衛星プチ帝国」ー『安心のファシズム—支配されたがる人々』(斎藤貴男/岩波新書)『「非国民」のすすめ』(斎藤貴男/筑摩書房)である日本では単純なフレーズしかもともと発せられない「首相」が「国際貢献」「人道復旧支援」という名目でアメリカに追従し「派兵」した。
マスコミはもっとも反対していたものでさえ事後追認し「自衛隊提供」などというクレジットを臆面も無く流すようになった。
世界の複雑な動きは「アルカイダ関与の疑い」などと表現されるだけで一気に色分けされ、人々は了解したつもりにさせられるようになった。
「安心」のために「監視・管理」は強化されるべきこととされるようになった。

一方で、構造改革・民営化などとさも新しい希望に満ちた政策であるかのように言っていることが、毎年アメリカが内々で日本に突きつける要求の忠実な反映であることも明らかになった。
グローバル資本(特に軍産複合体)と、それに都合のいいナショナリズムが一気に世の中を覆いつつある。
「平和憲法」などは「改正」するまでもなくとっくに無視・蹂躙されている。今ある改憲の動きは追認のカタチを整えるものでしかない。「日本国」は「日本国憲法」に即してはすでに運営されていない。ここでも「無法者」が支配している。

過去のアジア侵略・植民地支配を単に経済的にだけではなく政治的にきちんと清算していないからこそ起こるアジア諸国・諸国民との軋轢を逆に国家主義に利用する。
レイシズム(人種・民族差別)や女性蔑視の言辞を平気で、あるいは意図的に吐く輩が300万票以上を獲得して首都に鎮座する。ペロンを「極右」と呼びながら、この人物に対してはマスコミは何も言わない。

「国のために死ねる人材を育てるのが教育の目標」だの「反日分子」だのということばが国会で堂々と表明され、小中学校では「君が代」を本当に歌っているかどうか口元で「音量チェック」され、校長は教育委員会にもっと具体的な指示をしていただければ指導しやすいのですがとお伺いをたて、ちょっとおかしいのではと述べたPTA会長はよってたかって非難され辞任させられる。

北朝鮮による「拉致」は意図的に過去の「朝鮮人強制連行」とは切り離され(他の言語でこの歴史的事実の内容を表現すれば同じことだ)、元々の加害者が一斉にヒステリックに被害者面することでなにか優位な立場に立ったように思わせ、過去の植民地支配にほおかむりした(居直った)。

テロがもし「犯罪」であるのならばそれに対応するのは警察のはずだが、軍と警察はますます一体化しつつある。権力による管理・監視の範囲はとめどもなく拡がり、「有事体制」の訓練では「住民の参加」さえ求められるようになった。もちろん「始めは」「自発的に」だ。
「対テロ全面戦争」の国際的展開に合わせて「共謀法」などというものまで出てきた。

わずか数百たらずのグローバル資本が世界貿易の7割を牛耳るという根幹の問題を脇に置いて、「市場競争」がもっとも望ましいグラウンドであるように思わされるようになった。もともとの出発点の不平等はまったく無視して、競争に負けるのは努力が足りない質の劣っている本人・企業が悪いのだということが当たり前のようになってきた(「勝ち組・負け組」)。
「一億総中流」はもちろん幻想だった。市場にできるだけまかせる小さい国家は、基幹企業にはテコ入れするが、福祉や医療は削り、下層の人々は労働力・消費者としては利用されながらも徹底的に切り捨てられ始めた。リストラなどで中流から脱落する人々がこれに流入する。

「レッセ・フェール(自由放任主義)」「社会ダーウィニズム(自然淘汰・適者生存)」「夜警国家」などという、とうに歴史的な概念と思われていたことが21世紀に「舞台装置を隠されたなかで」ゾンビのようによみがえっている。

これが9.11の3年後のわれわれが置かれている状況だ。

9 12, 2004 15.社会・政治・思想・歴史そして世界へ |

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://radical-imagination.net/mt/mt-tb.cgi/1993

この記事へのトラックバック一覧です 9.11以後の3年:

» 神が命じた場所に立った兄弟-9・11から3年 BigBan
この世には、「選ばれた人」「選ばれた時間」というようなものがあるようだ。 どん

2004年09月14日 01:59

コメント

コメントを書く